人類が長らく「幻の生物」と恐れ、船乗りたちが「クラーケン」と呼んで恐れ続けた生物がいます。それがダイオウイカです。現存する最大クラスの頭足類(イカ・タコ類)であり、深海の闇の中で生きるその姿は、今なお多くの謎に包まれています。
学名: Architeuthis dux
分類: 軟体動物門 頭足綱 開眼目 ダイオウイカ科
全長: 雌は最大13メートル前後(触腕を含む)、雄はやや小型で約8〜10メートル
体重: 最大で275キログラム程度の記録がある
生息水深: 主に200〜1,000メートルの深海
分布: 南極海を除く全世界の深海
ダイオウイカはその名の通り、地球上に存在するイカの中で最大のサイズを誇ります。科学的に確認された最大全長は触腕を含めて13メートル前後とされており、外套膜(胴体部分)だけの長さは雌でも2メートル前後。長さの大半は2本の長い触腕(捕食用の腕)が占めています。
ダイオウイカが「実在する」と科学的に証明されたのは19世紀後半のことです。それ以前は、海岸に打ち上げられた死骸や、漁師の証言、マッコウクジラの胃の中から見つかった触腕の断片などから、その存在が推測されていました。
深海という環境が研究を困難にした最大の理由です。水深200〜1,000メートルという暗黒の世界は、人間が簡単に到達できる場所ではありません。仮に調査船を出しても、巨大なイカが近づいてくることはほとんどなく、網で捕まえようとしても深海での作業は極めて困難です。
生きたダイオウイカが初めて映像に収められたのは2004年のことです。日本の研究チーム(国立科学博物館の窪寺恒己博士らのグループ)が小笠原諸島沖の深海にカメラを設置し、餌に食いついたダイオウイカの姿を撮影することに世界で初めて成功しました。この映像はNHKやBBCで放映され、世界中に大きな衝撃を与えました。
2006年には同チームが生きた個体の採集にも成功し、水面近くで動くダイオウイカの動画が公開されました。それまで「幻」とされてきた巨大イカが、確かに今も深海を泳いでいることが証明された瞬間でした。
ダイオウイカの眼は、現在知られている動物の中で世界最大です。その直径は最大で約27〜28センチメートルに達するとされており、人間の眼の約9〜10倍のサイズです。
なぜこれほどまでに眼が大きいのでしょうか。光がほとんど届かない深海では、わずかな光を集めて視覚情報を得るために眼を大型化させる必要があります。また、天敵であるマッコウクジラが発する生物発光や動く影をいち早く察知するためとも考えられています。
頭部中央には、オウムの嘴に似た硬い「クチバシ(嘴状顎板)」があります。このクチバシは非常に硬く、獲物の甲殻類や魚を切り裂くのに使われます。マッコウクジラの胃の中から大量のダイオウイカのクチバシが発見されることがあり、マッコウクジラがいかに多くのダイオウイカを食べているかを物語っています。
ダイオウイカには8本の腕と2本の長い触腕があります。触腕の先端には直径2〜5センチメートルの吸盤が並んでおり、各吸盤の縁にはのこぎりの歯のような鋭いキチン質の歯が生えています。この歯で獲物の体をがっちりとつかみ、逃げられないようにします。
マッコウクジラの体に円形の傷跡が残っているのを見たことはありませんか?あれはダイオウイカの吸盤の歯が残した痕跡です。
ダイオウイカの最大の天敵はマッコウクジラです。マッコウクジラは深海潜水の達人で、水深1,000メートル以上まで潜ることができます。その胃の中からはダイオウイカの残骸が大量に見つかることから、マッコウクジラがダイオウイカを主要な獲物としていることは明らかです。
しかし、ダイオウイカも簡単には降参しません。マッコウクジラの体には触腕の吸盤歯によると思われる無数の円形の傷跡が残っており、これは捕食される際にダイオウイカが必死に抵抗した証拠と考えられています。深海の暗闇の中で繰り広げられる両者の死闘は、人類がまだ目撃したことのない壮大なドラマです。
日本の海岸にダイオウイカが打ち上げられたというニュースは、これまでに何度も報告されています。特に日本海側の海岸では、冬から春にかけて打ち上げられることが多いとされています。
富山湾では定置網に生きたダイオウイカがかかることがあり、地元の水族館(魚津水族館など)での展示が試みられたこともあります。ただし、深海から引き上げられたダイオウイカは水圧の変化に耐えられないことが多く、飼育は非常に困難です。
2004年9月、国立科学博物館の窪寺恒己博士らの研究チームは、小笠原諸島・父島近海の水深900メートルの地点に自動撮影システムを仕掛けました。餌としてイカを使ったトラップには、水中カメラと連続撮影装置が設置されました。
約4時間後、ダイオウイカが餌に食いつき、550枚以上の連続写真が撮影されました。生きて活動するダイオウイカの姿が記録されたのは、これが人類史上初めてのことでした。この写真はイギリスの科学誌「Proceedings of the Royal Society B」に掲載され、世界中のメディアが大きく報道しました。
注目すべきは、ダイオウイカが予想以上に積極的な捕食者であることが明らかになった点です。以前は底の方でじっと待ち伏せする受動的な生物とイメージされていましたが、映像ではカメラのトラップを素早く察知し、触腕を伸ばして積極的に餌に向かっていく様子が確認されました。
ダイオウイカは、地球上で最も謎に満ちた生物のひとつです。
深海の研究が進む中で、ダイオウイカについての情報は少しずつ更新されています。しかしその生態の大部分は今なお謎に包まれており、私たちの知らない深海の世界への好奇心を刺激し続けています。
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